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第一章:はじまり

 ​あるところに美しい不思議な女の子がいた。

 その女の子は3歳のころ、他の部族に襲われ異世界へと逃げた一族のひとりだった。家族は散り散りに、両親は子どもたちを守るため命を落とした。

 女の子カルレイアがひとりたどり着いた世界は、文明開化の兆しの見えた貴族社会の国だった。まだ幼いカルレイアは善良な人々に保護され、教会の孤児院へと連れられた。その孤児院で言葉を習い、貴族に見初められることがなにより大切だということを教わった。


 カルレイアは美しい女の子だった。銀のつややかな髪を持ち、その髪は軽くウェーブがかっている。長いまつ毛に縁取られたオレンジの瞳はどこまでも澄んでおり、まるで濁ることを知らない無垢な宝石のようだった。


 また、カルレイアはとても優しく大人しい子どもで非常に扱いやすい子だった。そんなカルレイアを一目見てぜひうちの子にと声を上げた貴族がいた。伯爵家のドウンという夫妻がカルレイアを養子にと望んだ貴族だった。カルレイアは夫婦を見てとても素敵なふたりだと思った。紳士的で優しい旦那様と、美しく女神様のように慈愛に満ちた奥様。なんてお似合いのふたりなんだろう、とカルレイアは思う。ふたりは名前をベルナルディーとアントネラと名乗った。


 カルレイアは名前をミレイユと改められ、孤児院から出ていった。新しい名前は違和感があったし、本当の両親が付けてくれた名前を捨てるのは寂しくもあったが、それはぐっと胸の中にしまった。せっかく名付けてくれたふたりを失望させたくなかったのだ。これからはミレイユとして生きていこう、と4歳のカルレイアは思った。

 ミレイユは本当にかわいらしくて大人しい子だった。夫婦はいたくかわいがり、特にアントネラ夫人はミレイユをとても愛してくれた。アントネラ夫人は身体に病を抱えており、そのせいで子どもは望めないと医者に告げられていた。そこで養子をとることにしたのだ。ミレイユはアントネラ夫人からひとりでは寂しいだろうから、数年後にあともうひとり兄弟をもらいに行く予定だと言われた。ミレイユはかつての姉妹を思い出し、その子と仲良くなれたらいいなと想像を膨らませた。


 だが、その約束は守られなかった。なぜなら、ミレイユが伯爵家に来て2年後にアントネラ夫人は亡くなってしまったからだった。死因は分からず、病のせいだと思われた。旦那様は非常に悲しみ、ミレイユもアントネラ夫人のことが大好きだったせいもあって激しくショックを受けた。明るかったミレイユは塞ぎ込むようになり、それを見て心を一層痛めたベルナルディー伯爵はある決意をする。

 少ししてベルナルディー伯爵に呼ばれたミレイユは驚くものを見る。玄関に、知らない女性と男の子が立っていたのだ。しかもベルナルディー伯爵は女性の肩を抱いて「新しいお母さんだ」と言うではないか。突然のことにミレイユは頭がついて行かずポカーンとしていたが、さらに男の子の頭を撫でながらこれからこの子と兄弟になるのだと言われミレイユはまじまじと男の子を見た。


 男の子はミレイユと同じ年くらいだったが、非常に賢そうな顔をした、どこか冷たい目の持ち主だった。手には難しそうな本を持ち、なんの感情もこもっていない目でミレイユをジロジロ見つめてきた。黒髪と緑の目の整った顔立ちの男の子である。母親は金髪に緑の目をしているのを見ると、黒髪は父親ゆずりなのだろうとミレイユはぼんやり考えた。母親のベアトリス夫人は美しく優しそうだったが、アントネラ夫人のことが頭をよぎりどうしても母親だと思えなかった。


 たどたどしく挨拶すると、ミレイユはすぐに自室へ戻った。ショックだった。あんなにもアントネラ夫人のことを愛していたベルナルディー伯爵が、まさか別の女性と再婚するなんて。しかも奥様が亡くなられてから半年も経っていない。ミレイユは旦那様に裏切られた気持ちだった。


 ミレイユは夕方、ベルナルディー伯爵の自室へ向かった。部屋で仕事をしていたベルナルディー伯爵は顔を上げ、ミレイユの複雑そうな面持ちを目に留めた。おいで、と言われ、重い足取りで行くとミレイユはベルナルディー伯爵の前で俯く。ベルナルディー伯爵は複雑なミレイユの心を見透かしたように声をかけた。しゃがんでミレイユと同じ目線になりながら、どうしてベアトリス夫人を妻にしたのか話し出した。


 ベアトリス夫人も少し前、夫を事故で亡くしたのだという。残ったのは幼い息子と母親、そして遺産だけ。息子のセルドラには父親が必要だとベアトリス夫人は考え、同じく母親を亡くしたミレイユには母親が必要だと旦那様は考えた。考えの一致と似た境遇のふたりがくっ付くのは周りからすれば容易に考えられるものだったが、ミレイユは受け入れられずにいた。だが、新しい兄弟が出来てミレイユはすこし嬉しかった。アントネラ夫人が最後まで約束を守ってくれたようで嬉しかったのだ。


 ミレイユはベアトリス夫人の息子、セルドラに会いに行った。セルドラは宛てがわれた部屋の中でぽつんとひとり立っていた。振り向いた緑の目は死んだように光がない。ミレイユは、まるで自分を見ているようだと思った。セルドラもまた、ミレイユと同じように複雑な心境なのだと思う。だがミレイユと違ったのは、セルドラはミレイユも敵だと思っているところだった。近付こうとすると、セルドラは「来るな!」と声を張り上げた。殺さんばかりにミレイユを睨み付け、「お前らは家族じゃない」と言った。


 ミレイユはベアトリス夫人のことはどうしても母親と思えなかったが、セルドラとは兄弟として仲良くしたいと思っていた。だが、セルドラはそうではなかった。兄弟になりたいどころか家族にも認めてもらえない。ミレイユは傷付き、傷付きながらセルドラの心境をなんとなく理解していた。ミレイユも、ベアトリス夫人とベルナルディー伯爵をそう思っていたから。

 ギクシャクした生活が始まった。仮染めの家族でも、ベアトリス夫人とベルナルディー伯爵は仲が良かった。ギクシャクしていたのは、セルドラとミレイユ、ミレイユとベアトリス夫人の関係だった。意外にもセルドラはベルナルディー伯爵を毛嫌いすることはなく、少しずつふたりで過ごすうちに打ち解けあっていっているようだった。旦那様の温かい人柄に触れて、ちょっとずつではあるがセルドラの心は花開いているように見えた。


 ミレイユも元々は優しく人の心の機微に敏感な子なだけに、ベアトリス夫人を邪険にすることもなく普通に接していた。ただ、母親というより知人の女性と暮らしている感じだったが。そのため、ベアトリス夫人を母様と呼ぶことはなくベアトリス様と名前呼びしていた。セルドラの母親なのにミレイユが母様と呼ぶのはセルドラに申し訳ない、という気持ちもあった。まだセルドラからはミレイユは家族と思われてないのだ。さらにセルドラに嫌われるようなことはしたくなかった。


 セルドラは、初日に比べると幾分か穏やかになったが、それでもミレイユは怖かった。自然と避けるようになり、部屋でふたりっきりになるとすぐに部屋を出るほどだった。それをセルドラは苦々しい表情で見ていた。


 そんなある日、ミレイユはセルドラが旦那様と仲良くしたがっている場面を見る。何度も旦那様に声をかけようとするが、恥ずかしいのかもじもじして終いには「なんでもない!」と駆けて行ってしまうのだ。ミレイユはなんとなく、なんとかしてあげたくなった。


 そこで、ベルナルディー伯爵を呼び止めてセルドラのことを話した。はっきりとセルドラから聞いた訳では無いが、きっと旦那様ともっと話がしたいのだと思うとミレイユは伝えたのだ。ベルナルディー伯爵はそれを聞いて喜び、セルドラにふたりで劇団を観に行こうと誘った。セルドラは旦那様に誘われてビックリしていたが、嬉しそうにうなづいた。ミレイユはそれを見て嬉しかった。仮染めの家族が、本当の家族になっていっているようで。

 その日からセルドラはミレイユになぜか優しくなった。夕食のときに椅子を引いてくれるようになったし、ある日なんて好物のチョコクッキーをプレゼントしてくれたのだ。セルドラがミレイユの好物を知っていたことに驚いたが、ありがとうと受け取った。セルドラはちょっと冷たいところがあるが、本当は優しい男の子なのだとミレイユは思った。


 ある晩、ミレイユがひとり談話室のソファで寝ていると、そこにセルドラが通りかかった。外は冬で暖炉には火が燃えている。セルドラはすやすや寝ているミレイユを見下ろした。そして、そっと頬に手を触れると、小声でミレイユと呼んだのだった。目を覚ましたミレイユは、すぐ目の前にセルドラがいるのに気付き、ビックリして起き上がった。お風呂上がりでついウトウトしてしまったらしい。部屋を見渡すと、セルドラとふたりきりだった。ミレイユが気まずそうにしていると、セルドラが「あの時はごめん」とつぶやいた。


「あの時って?」

 ミレイユが聞き返すと、セルドラは「初めて会った時。ひどいこと言ったこと、謝りたくて」そういうセルドラをミレイユは思わずまじまじと見つめた。ミレイユはセルドラに隣に座ってもらうと、ぐっと顔を近づけた。


「私と旦那様は、セルドラの家族?」
 

 すると、セルドラはうなづいて「うん。家族だよ」と言ってくれた。ミレイユは感動して、とても嬉しくなってにこっと笑うと、もうセルドラのことが怖くなくなっていることに気が付いた。ふとセルドラを見ると、緑の目を見開いてミレイユをじっと見つめていた。


「どうしたの?」
「い、いや...なんでもない!」


 そう言ってぷいっとそっぽをむいた。セルドラの頬がちょっと赤くなっている気がした。ミレイユはふわぁと欠伸をすると、セルドラにおやすみを言って自室へ帰ったのだった。

 その夜からミレイユとセルドラは関係がぐっと縮まり、ふたりでよく遊ぶようになった。交互に好きな遊びをし、セルドラがままごとに付き合ったりミレイユがチャンバラの相手になったりした。セルドラは本を読むのが好きらしく、自室へ行くといつも本を読んでいた。旦那様に大きな本棚を買ってもらったようで、本が大量にあるのだ。ミレイユも本は好きだがセルドラの読む本はどれも活字ばかりで難しく、ミレイユが読んでもさっぱり分からなかった。

 

 セルドラが興味のあるものといえば本と、そして剣だった。セルドラ曰く、貴族の男子はみんな剣が扱えないと1人前にはなれないらしい。逆に女子は裁縫やおしゃれが出来ないと立派なレディになれないと言われた。ミレイユは剣にはあまり興味はないが、裁縫やおしゃれには興味があったので女の子に産まれてきてよかったと思う。


 もう少し大きくなったらベルナルディー伯爵に頼んで剣術の先生を呼んでもらうとセルドラは言った。その頃にはミレイユなど全く相手にならないだろうなとミレイユは思った。いまも勝てないのだから、きっとセルドラはとても強くなるねとミレイユが言うと、セルドラは頬を赤くして顔を逸らしながら「当たり前だろ」と言っていた。

 そんなある日のこと。ビッグニュースが屋敷を駆け巡った。なんと、ベアトリス夫人とベルナルディー伯爵の間に子どもが出来たのだ。来年の春にはもう産まれると聞いてミレイユはビックリした。セルドラも驚いたが、いつか出来ると予想していたのかミレイユほど驚いてはいなかった。ミレイユは妹かな、弟かなと想像を膨らませては今か今かと赤ちゃんを心待ちにするようになった。セルドラはそこまで楽しみにはしていなかったが、それをミレイユに言うほど愚かではなかった。

 ミレイユはベアトリス夫人に教えて貰ったお裁縫で2枚のハンカチに刺繍をし始めた。セルドラが覗き込んでなにを刺繍しているのか聞くと、ミレイユは妹と弟のために縫っていると言った。セルドラは首を傾げて「でも産まれるのはひとりだよ?」と言うと、ミレイユはどっちが産まれてもいいように準備しておくのと答えたのでセルドラは思わず呆れたのだった。


 だが、赤ちゃんが産まれる日が近付くにつれてベルナルディー伯爵とベアトリス夫人はミレイユとセルドラより赤ちゃんを優先するようになっていった。ふたり仲良く一緒にいる時間が増え、ミレイユがベルナルディー伯爵に話しかけてもうわの空だった。それもそのはず、前妻との間には子どもは望めなかっただけにベルナルディー伯爵にとっては待望の赤ん坊だったのだ。

 

 ミレイユのことももちろん愛していたが、養子のミレイユとは違い自分の血を分けた子どもとなると話はまた別だった。ミレイユには伯爵家は継げないが、この赤ん坊が男の子なら継がせることが出来るのだ。セルドラもいるが、セルドラと赤ん坊、どちらを選ぶかと聞かれればベルナルディー伯爵は迷わず赤ん坊と答えただろう。それほど、赤ん坊の誕生を心待ちにしていた。だが、優先順位がぐんっと赤ん坊になってしまったことでミレイユとセルドラは寂しい思いをするようになってしまう。ふたりで遊ぶ時間が増え、夫婦が自分たちに目を向ける時間は減っていった。

 ミレイユが寂しそうにしていると、セルドラは決まって側にいてくれた。一緒にあやとりしようとヒモを持って来てくれたり、ぬいぐるみを使っておままごとをしてくれたりした。セルドラが居てくれるおかげでミレイユは寂しくなくなり、そんな優しいセルドラが大好きになっていった。ミレイユは赤ちゃんの誕生を楽しみにしていたが、段々と赤ちゃんのために刺繍するのではなくセルドラのために刺繍するようになっていった。そして何度も練習してハンカチにセルドラの名前を縫ってプレゼントしたのだった。


 セルドラはビックリして口をポカーンと開けていたが、嬉しげにそして大事そうに受け取ってくれたのがミレイユには嬉しかった。すると、その数日後。ミレイユが部屋で昼寝していると頬にキスされた気がして目を覚ました。起き上がると、セルドラが部屋から出ていくのが見えた。気付くとミレイユの側には小さな箱が置いてあり、赤いリボンをほどいて開けてみると、かわいいネックレスが入っていたのだった。


「わあ!かわいい!」
 

 ミレイユは喜んでさっそく身につけると鏡の前でくるくる回った。ネックレスはミレイユの瞳と同じ色の石で、キラキラと輝いてキレイだった。セルドラにお礼を言おうと探すと、セルドラはベルナルディー伯爵の部屋にいた。セルドラが旦那様に剣を習いたいと言っているようだ。ミレイユはセルドラが剣を習いたいと思っているのを知っていたので、そっと見守った。すると、ベルナルディー伯爵は優しく微笑んで今度の日曜日に剣術教室へ見学に連れて行ってあげようと約束を交わしてくれた。その瞬間、セルドラはぱあっと顔を綻ばせてお礼を言っていた。本当に嬉しそうなセルドラを見て、ミレイユもすごく嬉しくなった。

 

 セルドラが部屋から出てきたところを見計らって声をかけるとセルドラはギョッとした顔をした。思わずよかったね、と笑顔で言うと照れくさそうに顔を背けたあと、ちらっとミレイユの首元を見た。ミレイユがネックレスありがとう、と言うと「別に...」と顔を赤らめてどこかへ行ってしまった。

 そのままミレイユはベルナルディー伯爵の部屋へはいると、伯爵にセルドラからネックレスをもらったと嬉しそうに報告した。ベルナルディー伯爵は驚いた顔でネックレスを見た。そのネックレスに見覚えがあったからだ。確か、メイドのリリーが身に付けていたはず。6歳のセルドラが一体どうやってネックレスを手に入れたのか気になった。ベルナルディー伯爵がリリーに話を聞くと、リリーはセルドラに売ったと言ったのでさらに驚いた。一体どこにそんなお金が?

 

 伯爵がセルドラに訊ねると、本の間に紙幣が挟まっていることがあり、それをコツコツ貯めていたという。確かにセルドラに与えていた本はすべて中古本で、かつてはほかの貴族が所有していたものだ。本をへそくりに利用するのはよく聞く話だった。だが、紙幣といっても大した額ではない。せいぜい10ネクロとかだ。メイドのネックレスが買えるくらいなら、かなりの金額まで貯まっていたに違いない。だが、ベルナルディー伯爵は叱るどころかセルドラを誇りに思った。その大金を自分のために使うのではなく、ミレイユのために使ったことがベルナルディー伯爵は嬉しかったのだ。
 

 


 約束の日曜日、セルドラとベルナルディー伯爵、そしてミレイユは剣術教室へ見学に来ていた。貴族の子息たちが多く通う人気の教室だった。ミレイユがいるのは剣術教室に興味があったからだ。入門するわけでは無いが、どんなところなのか一緒に見に行ってみたかったのだ。剣術教室には7歳から11歳までの男の子がたくさんおり、みんな真剣な表情で剣術を習っていた。セルドラを見ると、目を輝かせながら熱心に剣術教室の生徒達を見つめている。

 

 すると先生がやってきて、ベルナルディー伯爵に剣術教室の説明をし始めた。どの子も貴族出身で、友達を作りながら剣術が学べること。特に、教える講師は王都の騎士団からきた現役の騎士だと聞いてセルドラはとても興奮していた。

 

 ミレイユはこんなにもたくさんの男の子を見たことがなかったのでちょっと驚く。当たり前だが女の子はひとりもいない。男の子たちの熱気に圧倒されて思わずベルナルディー伯爵とセルドラの後ろに隠れるほどだった。


 だが、剣術教室の生徒たちは見学に付いてきたミレイユに興味津々で、チラチラとミレイユを見てはミレイユと仲良さげなセルドラを値踏みしていた。特にふたりと年の近い生徒たちからの視線が強く、ミレイユがその子たちに視線を送るとカッコイイところを見せようといつもより気合を入れてはげむほどだった。それに気付いた先生が思わず苦笑し、いつもこうだったらな、なんて言うと生徒たちはちょっと気まずそうにした。


 それほどにミレイユはかわいかったのだ。青みがかった銀色の髪と、明るいオレンジの瞳はとても人目を惹き付け、それに加えてミレイユは美少女といってなんら差し支えなかった。つまり、ミレイユは文句なく絶世の美少女だったのだ。
 

 セルドラも整った顔立ちとキリッとした表情で普通の子たちとは違う雰囲気を感じさせた。非常に賢いという噂も先生たちの耳に届いていたため、伯爵家の子というのもあったが、それを差し引いても先生たちの注目の子どもだった。

 通えるのは春からと聞いてセルドラはがっかりしたが、予想以上に本格的な剣術教室だったようでいまかいまかと剣術教室に通えるのを心待ちにしていた。その間、セルドラが剣術教室で使うための子ども用の剣を買いに行ったり、剣術教室の服を見繕ったりとそれなりに忙しかった。また、それからも何度か見学に足を運んだが、ミレイユは2回目以降は付いていかなかったので生徒たちががっかりした。

 春になり、晴れて剣術教室に入門できたセルドラだったがそれ以外にもおめでたいことがあった。7歳になったセルドラとミレイユは待望の赤ん坊とご対面したのだ。とうとう赤ちゃんが産まれたのだ。赤ん坊は男の子だった。黒髪に青い瞳のとてもかわいらしい赤ちゃんで、名前はリオネルと名付けられた。リオン、リオンと愛称を付けてミレイユは進んでお世話をした。ベルナルディー伯爵とベアトリス夫人の愛情もすごく、リオネルは常に誰かに抱かれていた。セルドラもリオネルをかわいがったが、赤ん坊を抱っこするのはちょっと気が引けるようであまり抱っこしようとはしなかった。赤ん坊を落としそうで怖かったのだ。


 ミレイユはまるで自分の赤ちゃんのようにかわいがり、ミレイユの口からリオネルの名前ばかり出るのでセルドラがウンザリするほどだった。セルドラにとっては弟が産まれたことも嬉しかったが、剣術教室に通えることがなにより嬉しかったのでそっちの話をしたかった。王都の騎士に剣術を教えてもらえるのだ。

 

 ミレイユに王都の騎士団がどれだけすごいのか興奮して話すと、ミレイユも目を輝かせた。セルドラ曰く、騎士団長はドラゴンも倒したことがあるとか。世界でも上位5人に入る騎士が在籍しているとか。そして、騎士団に入るには誰よりも強く紳士的でなければ入れないのだという。騎士団の入団試験には毎年不合格者が続出し、入団出来るだけで未来は約束されたも同然だった。


 貴族の次男坊や三男はみなその騎士団に入団することを目指している。剣術教室でもより熱心なのはそういった子たちばかりだそうだ。


 セルドラは長男だが、騎士団に入りたいのかなとミレイユは思い、それをベルナルディー伯爵に言うとリオネルがいいと言うのであればリオネルに伯爵家を継がせることも出来る、と言っていた。ミレイユがそれをセルドラに伝えると、セルドラは「知ってる」と言った。


「前に伯爵から言われた。お前は自由に生きていいって」
「じゃあ、セルドラは騎士団に入るんだね? すごい!」


 騎士団に入る前提でミレイユが嬉しそうに言うと、セルドラは考え込んだ。整った眉を寄せて、複雑そうな面持ちでじっと床を見つめている。ミレイユはどうしたんだろうと首を傾げたが、結局セルドラから答えを聞くことはなかった。

 あれだけ憧れている騎士団なのに、なんで入るのを迷っているのかなとミレイユは思う。だがミレイユも将来なにになりたいかと聞かれても答えられないと思った。

 

 貴族の娘といえば結婚する道しかないだろう。大半が若くして結婚し、子ども(特に男子)を産むことが女性の仕事といえば仕事だった。ミレイユは養子だが、養子でもほかの貴族の元に嫁ぐ可能性はあった。しかも、ミレイユは伯爵家の養子だ。それに加えて伯爵家の唯一の女の子でもある。伯爵家と縁が欲しいために、ミレイユをぜひ妻にと望む貴族は多かった。だが幼いミレイユはまだそれを知らない。

 ミレイユは将来の結婚相手を想像してみた。ぼんやりとした顔が浮かんでよく分からなかったので、ベルナルディー伯爵に未来の結婚相手を聞いてみた。


「結婚相手?  ミレイユはもう結婚相手が欲しいのかい?」


 微笑ましそうにベルナルディー伯爵は言う。ミレイユはうなづいた。素敵な人だといいな、と思って。と言うと伯爵は考える素振りを見せた。


「では許嫁を決めようか」
「いいなずけ?」
「ああ。ちょっと時間がかかるけど、今度連れて来てあげよう。その男の子がミレイユの未来の旦那様だよ」


 ミレイユはそれを聞いてぱあっと顔を輝かせた。おめかししなくちゃ!ミレイユはキレイになるために持っている中で1番キレイなドレスとアクセサリーを身につけた。銀色の髪の毛を何度も梳かしてつやつやにすると、メイドのマリエッタに頼んでかわいく結い上げてもらう。

 

 ベアトリス夫人から真っ赤な口紅を借りてマリエッタに口紅を塗ってもらうと、鏡を覗いてみた。するとそこにはお人形さんのように美しくかわいらしい女の子が映っていたのだった。メイドのマリエッタが褒め称えるほどの美少女ぶりに、ミレイユは嬉しくなって笑顔になる。


 そこに偶然セルドラが通りかかり、ミレイユの姿を見てギョッとした。ポカーンと口を開け、あまりの美しい女の子の姿に思わず頬を赤らめるほどだった。


「ど、どうしたの?」
「あのね今度、未来の旦那様が来るからおめかししてるの」


 それを聞いてセルドラはビックリする。


「え? 未来の旦那様?」
「うん、いいなずけなの」


 許嫁という言葉にショックを隠せないセルドラ。

 だが、この話には続きがあった。かわいいミレイユの意思を尊重するためにベルナルディー伯爵はあるパーティを開いたのだ。そのパーティにはミレイユと同じ年頃の男の子を招待し、その中でミレイユが気に入った男の子を許嫁にするというものだった。伯爵家の招待状を見て俄然やる気の出た貴族たちは、自分の息子をミレイユに見初めてもらおうと張り切って送り出した。そこまで張り切るのにはわけがあった。伯爵家の娘といえば絶世の美女になるに違いないと言われるほどの美しい女の子という噂が、貴族内で駆け巡っていたからだ。

 

 しかも政略結婚が多い貴族の中でミレイユの意思を尊重してわざわざそんなパーティまで開くということは、ミレイユがただの養子の娘ではなく実の娘として愛情をもって伯爵家が育てているということ。息子の妻にするには十分価値があると判断した結果だった。しかもこのパーティのいいところは誰にでもチャンスがあるということ。判断基準が7歳の女の子なのだから、どんな貴族でも選ばれる可能性があった。そのため、伯爵家が招待した貴族は数が限られたが招待された貴族には平等にチャンスが与えられるのだ。

 ミレイユは張り切っていたが、セルドラは全く乗り気ではなかった。パーティ当日、ドレスを着て精一杯のおしゃれをしたミレイユと同じように、セルドラも正装をしたが、終始ぶすっとした顔だった。


 パーティは屋敷の美しい庭園で行われた。集まった貴族の男の子たちは5-10歳までの子で、5人ほど招待されていた。太った子もいれば活発な子もいる。ミレイユは一人ひとりの男の子と遊んで交流した。男の子の中には紳士的な子もいて、ミレイユをお姫様として扱ってくれた。その子は名前をカストルといい、なんと公爵家の長男だという。年はミレイユのひとつ上で白金髪と青い瞳を持ったとてもかっこいい男の子だった。ミレイユの髪は青銀色なのでふたりが横に並ぶとお似合いでとても人目を引いた。

 他のどの男の子も優しくミレイユを受け入れてくれたが、ひとりだけ例外がいた。侯爵家の次男アルドロスという男の子だ。8歳だが鋭い目付きをしていて攻撃的でとても無愛想な男の子だった。長い赤い髪と茶色の瞳の、非常に中性的な顔立ちをした男の子で、なにが面白くないのかずっとブスっとしており、ミレイユが声をかけてもプイッと顔を背けてしまうのだ。カストルが思わず咎めるとアルドロスは逆にカストルに食ってかかるほどだった。見かねたセルドラが間に入りミレイユもふたりを止める。


 ちっとも楽しそうではないアルドロスをミレイユは不思議に思い、ちらちらと気にかけていた。ランチのサンドイッチが出てきた時もアルドロス食べようとせず、庭園の端っこにいる。ミレイユはサンドイッチを持ってアルドロスの元へ行くと、優しく声をかけた。


「一緒にサンドイッチ食べない?」
「......」
「ねえ、どうしてずっと怒ってるの?」
「え?」
「だって、ちっとも楽しそうじゃないから」
「...別に」
「嫌なことでもあったの?」
「うるさいな!」


 アルドロスが叫んで手を振ると、ミレイユの手に当たり持っていたサンドイッチが飛んでいった。


「あいつ...!!」


 それを見ていたセルドラが怒り駆け寄って、アルドロスをドンッと押し倒したためミレイユが悲鳴を上げた。


「止めて!」


 それを聞いた大人たちがやってきてパーティは中止された。アルドロスとセルドラは派手にケンカをしてカストルは呆れた顔をした。みんなが帰ったあと、ミレイユはひどく落ち込み、パーティも婚約者を選ぶことももうしたくないとベルナルディー伯爵に言ったのだった。


 ベルナルディー伯爵はミレイユを励ましたが彼も反省していた。もっと考えればよかったと、簡単にパーティを開いてしまったことを後悔したのだ。ケンカしたセルドラは鼻血とおでこに痣が出来た。ミレイユはセルドラの痛そうな傷を見る度に心が沈んだ。ケンカがとても怖かった。大切な人が傷付つく姿が、とても恐ろしくてミレイユの過去を思い起こさせた。


 セルドラには、もう誰ともケンカして欲しくないと思った。傷付くのも、相手を傷付けるのも嫌だった。ミレイユは傷の手当を手伝いながらセルドラにそう言ったのだった。その代わり、自分の秘密を教えるからと。


「秘密?」
「うん。誰にも言わないでね」


 部屋のベッドにふたりは座った。ミレイユはキッチンからこっそり持ってきたナイフを取り出す。セルドラはギョッとするが、ミレイユはためらいもなくナイフで素早く腕を切った。


「な、なにしてんだよ!!」


 慌てて傷口を見るが、不思議なことに傷がどこにもない。白い肌には血さえ付いてなかった。セルドラが首をかしげるのを見て、ミレイユが今度はゆっくりナイフを肌に這わせた。切れて血が出るはずなのにミレイユの肌は無傷のまま。セルドラは切れないナイフなのだと思い、ミレイユから取り上げて自分の指を刃に這わせたが、いとも簡単にセルドラの指は切れ血が滲んだのだった。


「いてっ! ...え? ミレイユ...お前」


 ミレイユは長いまつ毛を伏せた。これはベルナルディー伯爵も知らない秘密だった。ミレイユは目を見開いているセルドラを見つめると、自分の秘密を話し始めた。

 ミレイユは実は別の世界から来たこと。その世界にはたくさんの特殊な一族がおり、ミレイユの一族は身体がとても頑丈でどんな攻撃も跳ね返す力があった。ミレイユの一族を恐れたほかの一族たちは、一族に毒を盛り毒殺しようとした。いかに頑丈でも内部を破壊する毒には太刀打ち出来なかったのだ。


 そのためミレイユの一族は数をどんどん減らし、ミレイユの家族だけ生き残った。両親は3人の娘を必死に育て、毒の耐性を付けさせようと少量の毒を母乳に混ぜた。そのおかげでミレイユたちは少しの毒なら死なない身体になったが、ほかの一族に居場所がバレてしまい散り散りになった。当時、協力して逃がしてくれた一族がおり、その一族は空間を移動する術に長けていた。なるべく遠くに逃がして欲しい、という両親の希望を聞き、ミレイユたち3人の娘はそれぞれ全く別の世界へと飛んだのだった。


 それを聞いたセルドラは思わず絶句した。ミレイユは不思議な女の子だとは思っていたが、まさか別の世界から来ただなんて。ミレイユは続けた。当時の名前はカルレイアで、養子にもらわれた時にミレイユと名付けられたこと。それも初めて聞くことだったのでセルドラはひどく驚いた。


 始終ポカーンとしていたが、セルドラは約束した。もうケンカはしないと。ミレイユの壮絶な生い立ちを知り、セルドラも心を痛めた。この話はセルドラの心に深く刻まれ一生忘れられない出来事となったのだった。
 

 


 パーティから数日後。突然、侯爵家が訪れた。次男のアルドロスが騒ぎを起こしてしまったことを謝罪しに来たのだ。ベルナルディー伯爵が温かく玄関で迎えたが、ミレイユが旦那様に呼ばれて出てくると顔に怪我をしたアルドロスはハッとミレイユを見てすぐにふいっと目を背けた。気まずそうなアルドロスの雰囲気にミレイユもなんと言ったらいいか分からず立ち尽くす。その日、侯爵家はお詫びの品を渡してすぐに立ち去ったが、数日後に改めて謝罪にきたのだった。その時はアルドロスも前に出てミレイユに謝った。


 ミレイユはもうなんとも思っていなかったので、にこっと笑うとアルドロスの手を掴んで自室へ案内した。戸惑うアルドロスを他所に、ミレイユは自分の宝物を見せた。おしゃれで素敵なお菓子の箱に、ミレイユの大切なものがたくさんしまってある。セルドラからもらったネックレス、刺繍道具、編みかけのハンカチ、お気に入りのリボン、キレイなビー玉...。


 ひとつずつ包み隠さず教えてくれるミレイユを、アルドロスはじっと見つめた。そしてミレイユが一通り話し終えたとき、アルドロスはミレイユに聞いた。


「どうして怒らないんだ?」
「なんで?」


 するとアルドロスはますます困惑する。


「なんで、だって? パーティを潰されて怒るのは当たり前だろ。俺だったら絶対に許さないのに」


 最後は消え入りそうな声だった。ミレイユは優しく笑うと、「だって謝ってくれたから」と言ったのだった。アルドロスはぽかんとした。ミレイユは構わずアルドロスに一緒にあやとりしようと言った。アルドロスはあやとりを知らなかったのでミレイユが教えてあげると意外に手先が器用ですぐに上手くなった。交互に糸を移動させるアルドロスとミレイユ。言葉は交わさなくても、ふたりの間には段々と穏やかな雰囲気が広がっていた。アルドロスも緊張した顔が優しい顔になったのを見て、ミレイユは微笑んだ。


 ちょっと待ってて、とそう言って部屋を出て行ったミレイユは、セルドラのところへ向かった。アルドロスもそうだが、まだセルドラの顔にはケンカの傷跡がすこし残っている。窓際で本を読んでいたセルドラはミレイユに気付いて顔を上げた。


「一緒に遊ばない?」


 ミレイユは誘いに来たのだ。セルドラはいまアルドロスが屋敷にいることを知っている。一緒に遊ばない?とは、つまりそういうこと。セルドラは嫌な顔をして首を横に振った。すると、扉からひとりの少年が現れてセルドラとミレイユは驚く。それはアルドロスだった。アルドロスはジロっとセルドラを見つめると、セルドラも睨み返した。すこしだけ睨み合いをしたあと、アルドロスがセルドラに、


「ごめん」


 と頭を下げたのだった。セルドラはギョッとして腰を浮かすと、思わず本を落とした。アルドロスは顔を上げたが、元々の目付きが悪いせいか、それとも本当に謝るつもりがないのか、「かかってこいよ」とでも言いそうな挑発的な表情だった。セルドラは嫌そうに眉を寄せたが、相手は頭を下げて謝ってくれたのだ。渋々ながらセルドラも謝る。


「こっちこそ、押し倒して殴ってごめん」


 しーんとした沈黙が痛い。だが、ミレイユはふたりが仲直りしようとしているのを見て嬉しかった。


「一緒に3人で遊ぼ!」


 ミレイユが笑顔で声を上げると、ふたりは嫌そうな顔をしながら渋々、一緒に遊び始めたのだった。


 それ以降アルドロスはたまに屋敷へ来るようになり、セルドラとのギクシャクも遊びの中で自然と溶けていった。また、アルドロスもセルドラと同じくらい頭がいいようで、意外とふたりは話が合った。聞けば、アルドロスは将来医者になりたいらしい。それを知ってミレイユはすごいなあと思いアルドロスを尊敬した。セルドラもまた、しっかりと将来を見据えるアルドロスをすごいと思う。


 アルドロスとミレイユが仲がいいのを見たアルドロスの父、ロズワルド侯爵はミレイユをぜひうちの子の許嫁にと強く望んだ。ベルナルディー伯爵もふたりが仲良く遊んでいるのを見て気にはなっていた。ある晩、ベルナルディー伯爵はミレイユを呼び出してアルドロスを許嫁にしてもいいかと訊ねた。もちろん、子の許嫁など親同士で決めればよく、子どもの意思はそっちのけが普通である。だが、ミレイユにわざわざ訊ねたのはベルナルディー伯爵の愛でもあった。ミレイユはちょっとびっくりしたものの、一緒に遊んでいて楽しかったしアルドロスは意地悪だけれど優しかったので「うん」とあっさり答えたのだった。


 後日、アルドロスとミレイユは正式に許嫁になった。アルドロスは特に何も言わなかったが、ミレイユと一緒にいるときはミレイユに気遣うようになった。だが、許嫁になったところで急激に関係が変わることはなく、3人は普通に仲良く遊んでいた。しかしそれも長続きはしなかった。それから2年後の、セルドラとミレイユが9歳になったころ。それは急に起こった。


 ある日から急に、セルドラがミレイユに冷たくなってしまったのだ。ミレイユが駆け寄るとさっとどこかへ行ってしまうし、声をかけても顔も見てくれず、短い返事をするだけ。とりわけ、ミレイユがセルドラの部屋に入ると烈火のごとくセルドラが怒った。そのことをアルドロスに相談すると、アルドロスもギョッとして「もうあいつの部屋に入るな」とキツく何度も言われてしまった。セルドラだけでなく、10歳のアルドロスもミレイユとふたりっきりになることを異常に避けるようになり、ミレイユは突然のふたりの変わり様に驚きひどく寂しくなった。


 今日もセルドラとアルドロスを遊びに誘ったが冷たく断られてしまい、ミレイユはひとり部屋の中で泣いてしまった。それを見たベアトリス夫人がミレイユを優しく慰めてくれた。


「どうして2人とも一緒にいてくれなくなったの?」


 そうミレイユに訊ねられてベアトリス夫人はどう答えていいか考えあぐねた。どうして2人がミレイユを異常に避けるのか、ベアトリス夫人には心当たりがあったからだ。


「わたし、なにかしちゃったのかな...」


 しゅんとした顔で足をブラブラさせるミレイユ。


「ミレイユがなにか悪いことをした訳じゃないわ。そうね...、これは男の子の問題なの」
「男の子の問題?」


 ミレイユは首を傾げる。ベアトリス夫人は美しく微笑むと、ミレイユのウェーブがかった青銀の髪を撫でた。髪は前より伸びていまでは背中まである。


「そう。しばらくすれば落ち着くから、それまではそっと見守ってあげましょう」
「......」


 そう諭すように言われても、ミレイユには納得がいかなかった。元々、この世界の人物ではないからか、なんとなく腑に落ちない。ベアトリス夫人は女の子なら察してあげましょうとも言っていたが、やはりミレイユにはなんのことかさっぱりだった。

 

 アルドロスはセルドラほど冷たくはないが、屋敷に訪れてもミレイユには必要最低限にしか顔を見せずセルドラの部屋にばかりこもっていた。あまりよろしくないが、気になってこっそり扉に耳を当ててなにをしているのか盗み聞きしてみたことがあった。真剣な声で深刻そうに話をしていた。ミレイユにはまだ分からない難しい話をしているのだろうか。ミレイユはふたりと比べてあまり頭がよくないから、話の通じるふたりだけで話をしているのかもしれないと思う。ミレイユは除け者にされてみたいで悲しくなった。


 頭を良くしようとベルナルディー伯爵の部屋へ行き、本をいくつか借りて読んでみたけれど難しい言葉ばかりで文字を追うだけでも精一杯になる。混乱しながらも一生懸命に理解しようと読んでいると、それを見たベルナルディー伯爵が苦笑して本を3冊も買ってくれた。いわく、最初はこういう本がいいと。それはいわゆる児童向けの本だった。

​ ミレイユは3冊とも読み、特に『ひみつの恋』という恋愛の本に夢中になった。かわいらしい妖精の女の子が人間の素敵な男の子に恋をする物語である。その物語の中で、男の子が急に妖精を避けるようになる場面があり、ミレイユはそれがセルドラとアルドロスみたいだと思った。その男の子が避けるようになったのは、彼が9歳になったころで避け方もそっけない雰囲気もセルドラとアルドロスにまるでそっくりだった。そして、その避ける理由も書かれていた。それは、男の子が妖精のことを自分のものにしたくなったからだと。

 

 セルドラとアルドロスもそうなのだろうか?ベアトリス夫人はなんでふたりがあんな風になったのか知っているようだったし、ベルナルディー伯爵もなんとなくそんな感じだった。だが旦那様たちに聞いてみても、ふたりはただ微笑むだけ。ミレイユはモヤモヤした気持ちでいた。


「変なの。自分のものにしたいのにどうして避けるんだろう」
 

 考えれば考えるほど分からないし、ますます悲しくなってくるのでミレイユは手紙を書いた。どうして避けるの?私がなにかしたのなら教えて欲しい、と書いたのだ。それをセルドラの部屋のドアに挟んだ。
 


 そんなある日、ミレイユは家庭教師のレティ先生に勉強を教わっていた。レティ先生は去年から専属の家庭教師として雇われている中年の貴婦人で、かつては学校の先生をしていたという。目元にシワを寄せながら厳しく教えてくれるレティ先生が、ミレイユは嫌いじゃなかった。伯爵家の娘だからと甘やかしてくる大人がいる中、レティ先生だけは裏表なくミレイユに真っ直ぐ向き合ってくれるのだ。ミレイユはそれがとても嬉しかった。勉強も好きだったので一生懸命に学ぶミレイユをレティ先生もかわいいと思っていた。

 

 貴族の娘に勉学は必要ないという者たちは多いが、そんなことは毛ほどもないとレティ先生は口を酸っぱくして何度も言っていた。むしろこれからは頭の良い娘が勝ち残っていくのだと。その言葉を聞く度にミレイユは頭のいいセルドラとアルドロスを頭に浮かべた。追い付けなくても、すこしでも近付くことができたらまた一緒に遊んでくれるだろうか。


「ミレイユさん、最近はすこぶる成績がよろしいですね。なにか自習でもされているので?」


 いたく感心するレティ先生にミレイユはうなづいた。


「はい、レティ先生。分からないことや知りたいことがあれば、部屋でひとり納得するまで勉強しています」
「素晴らしい。それでこそ立派なレディです。分からないことがあれば、なんでもお聞きなさい。ただし、自習もほどほどにするのですよ」
「はい、レティ先生」


 ミレイユが素直にニコッと微笑むと、眩しそうにレティ先生は目を細めた。

 手紙を書いてから数日経っても返事はなかった。それ以降、ミレイユもセルドラとアルドロスに積極的に関わらなくなった。男の子と女の子がこの年にもなって一緒に遊ぶなんて、恥ずかしいことなんだわと言い聞かせて。


 この頃、ミレイユはベアトリス夫人から教えてもらったクッキーやマフィンなどのお菓子を作ることにハマっていた。広い厨房に椅子を持って行って、専属のコックと一緒に作るのだ。アーモンドやチョコレート、キャラメルなど色んなものを入れて味のバリエーションを増やしたりして工夫を凝らした。コックから美味しい!と太鼓判をもらうとすごく嬉しくなって、ミレイユはベルナルディー伯爵とベアトリス夫人、そして2歳になったリオネルにお菓子をプレゼントした。セルドラにもあげようとしたら、甘いのは苦手と言ったのでやめた。

 

 アルドロスにもプレゼントするか迷ったが、せっかく作ったからと、クッキーをキレイな包み紙に包んで手紙を添えて贈った。

 

 侯爵家の屋敷でアルドロスはそれを受け取り、手紙を読んでしばらく沈黙した。プレゼントを持ってきたメイドはひどく考え込むアルドロスを見て微笑んだ。


「そろそろ会いに行ってはいかがですか。こんなにも健気で、しかも手作りのクッキーですよ。なんとかわいらしいお嬢様ですこと...」


 実はもう数ヶ月ほど伯爵家には行っていなかった。こんなにも長い間、屋敷を訪れないのはミレイユと許嫁になってから初めてのことだ。


「分かってる。俺も会いたいし、抱きしめてやりたい。でも出来ないの分かってるだろ」


 ぼそっとつぶやいたその言葉に、メイドは優しく微笑む。


「もっとご自分を信じてみてください。坊ちゃんなら出来ますとも。わたくしは信じていますよ」


 アルドロスはクッキーをひと口かじると、ほんのり甘さ控えめな優しい味にミレイユを思い出し、穏やかな表情になったのだった。
 

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