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半月

 

 ――これは、とある2匹の狼の物語。

 面識の全くないふたりの男女はある日、同じ場所で亡くなった。それは本当に突然の出来事だった。まだ若く、育った場所も境遇も違うふたりの男女は、気がつけばなにもない真っ白な空間に立っていた。

 そこへ美しいひとりの神様がやってきて、ふたりをじっと見つめる。滝のように流れる白く長い髪をした、上品なたたずまいの男神だった。

 神様はふたりの心が美しく生前はとても良いことをしていたため、1つだけ願いを叶えてやろうという。ふたりは戸惑ったが、欲がないふたりは特になかったため首を振った。神様はうなずくと、静かにふたりの今後の予定を話し始めた。

 

 神様が言うにはふたりは別の世界へ転生し、そこで生を全うするという。

 死ぬまで会ったこともなかったふたりは顔を見合わせ目を瞬かせる。これから見知らぬ世界へ一緒に転生すると言われても、ふたりは戸惑うしかなかった。しかし神様は口を閉ざし、それ以上はなにも教えてはくれない。

 ふたりはこの運命を受け入れるしかなかった。互いに顔を見つめ合うと、忘れないように脳裏に焼き付けようとした。見たことも聞いたこともないような世界に、仲間はたった二人しかいないのだ。少しして神様は去り、ふたりは光に包まれていった。

 

 ◇◇◇

 目を開けるとそこは白銀の世界だった。白くキラキラ輝く雪が一面に広がり、周囲は雪をかぶった森に囲まれている。そんな冷たい雪の上でふたりは丸まるように横たわっていた。

 ふたりはお互いを見て驚いた。なぜなら、ふたりは人ではなく狼になっていたから。女性は白く毛並みの美しい白狼に、男性はごわごわした硬い毛並みのがっしりとした黒狼になっていた。

 

 なぜ人間ではなく狼なのか?

 

 前世の記憶があるだけに違和感がありまくりなふたり――いや2匹――だが、狼になったお陰か、これだけ雪に囲まれていてもほとんど寒さを感じなかった。フワフワな毛並みと高い体温がそうさせているのだろう。

 2匹はしゃべることは出来なかったが、お互いの瞳やしぐさ、鳴き声でなんとなく理解することが出来た。

 森と雪が広がる世界を2匹は共に歩いた。しばらく経つと空が曇り冷たい雪が降り始めた。そして次第に強い風が吹き荒れ、吹雪が襲ったのだった。そんな中、黒狼が古い山小屋を見つけ2匹は小屋に入った。人間はいなかったがツンとする刺激臭がかすかに漂っており、それが人間の匂いなのかもしれないと白狼は思う。2匹は毛布の上に横になり身を寄せ合うように眠った。その山小屋にはかなりボロボロの状態だったがベッドと調理器具があり、壁には罠や刃物がずらりと壁に飾られていた。この小屋の持ち主はきっと狩人だったんだろう、と黒狼は思う。

 小屋は建付けが悪く、補修もあまりされていなかったため冷たい風が隙間から入ってきた。しかし、そこは2匹にとって初めて安心できる温かい家だった。そして、しばらくその古い山小屋​がふたりの家になった。

 朝になり、2匹は目を覚ますと白狼があいさつ代わりに黒狼の鼻と自分の鼻を触れ合わせた。ビクッと黒狼が身体を震わせるが、黒狼の瞳は優しかった。すっと立ち上がり、黒狼が先に小屋を出ていく。白狼も後をついて外に出た。

 小屋は林の中にあるため、辺りは見上げるほどの木と一面に広がる白銀の雪の世界が広がっていた。凍った霧が朝日に照らされてキラキラと輝きながら落ちてきた。白狼がそれをうっとり見上げる。鼻づらに落ちてきたものをひとなめすると冷たくて白狼は思わず身体を震わせた。黄金色に反射する美しい世界に、黒狼も言葉を失ったようにじっと眺めていた。

 狼になったからには本能に従わないといけないときも出てくる。狩りの時間がまさにそれだった。食料は白うさぎなどの小動物を狩ったり、凍った動物の亡骸を見つけねばならず、そういった“狩り”は主に黒狼が行った。運が良いと大きな鹿が手に入り、そういうときはしばらくの間食料の心配をする必要がなかった。鹿やうさぎの凍った死がいを食べるのは勇気が必要だったが、なんの抵抗もなくがつがつ黒狼は口にしていたため白狼も食べることができた。

 黒狼が狩りをしている間、白狼は小屋の寝床を整えたり水を確保するため川を探しにいったりしていた。その内、なにもすることがなくなれば黒狼に付いて狩りに行くこともあった。狼の足の速さといつまでも走り続けられるスタミナに驚き、生きている動物に牙を埋め込む感覚も知った。

 次第に白狼は、だんだんと自分たちが人間ではなく狼として生きることになんの違和感も覚えなくなっていることに気が付いた。白狼はそれに気付く度にどうしようもなく不安になった。まるで、もう二度と人間に戻れないような気がして。そんな日は、黒狼の毛並みに顔を埋めて自分はひとりではないのだと言い聞かせるのが常だった。黒狼は白狼ほどナイーブにはなっていなかったが、人間のときの記憶が薄れていくことに少しの寂しさを覚えていた。

 ◇◆◇

 真冬をそうして乗り切り、裸の木々に芽が出始めた初春の時期に、それは突然起こった。2匹がいつもと同じように林の中で狩りをしていると、その林をなわばりにする狼の一族(群れ)に出会ったのだ。狼たちは冬に現れた白狼と黒狼を快く思わず、恐ろしい唸り声を上げてきた。黒狼は白狼を守るため前に出て同じように低い唸り声を上げた。黒狼の太い足に力が入り、血管が浮き出る。身体の大きな黒狼のすさまじい迫力に、群れの何匹かが後ずさった。

 狼の群れは通常、2匹の夫婦とその子どもたちで成り立っているが、この狼の一族は通常よりもかなり大きな群れだった。古くからこの地一帯を縄張りにしているその一族たちは怒り狂っていた。

 それは狼からすれば当たり前のことだった。ただでさえ獲物の少ない真冬の時期に、縄張りの中で好き放題に狩りをされたことに狼の一族は怒っていたのである。

 けたたましい狼たちの吠え声に2匹は為す術もなくここを出ていくしかなかった。ケンカしたところで相手は巨大な群れ。いくら黒狼が普通の狼よりも屈強であっても、かなうはずがなかった。

 ようやく棲み慣れはじめた土地を追い出された2匹は、寄り添いながらも心は不安にさいなまれていた。2匹の狼は見たこともない土地をはてしなく、行くところもなく歩いた。

 温かい太陽のおかげで雪どけが始まり、白銀一色だった地面にところどころ淡い緑が顔を出している。芽が出たばかりの草は柔らかくて食べやすい。時々、2匹はそうした草を食べてなんとか飢えをしのいでいた。

 

 そんなある日、久しぶりにうさぎを狩ることが出来た。2匹で仲良く食べようとしたとき、ふと白狼が離れた場所から白いキツネがこちらを見ていることに気付く。黒狼を鼻でつついて教えると、2匹は白キツネのようすをうかがった。白キツネは物欲しそうに狩られたうさぎを見ては、何度も黒狼と白狼を気にしていた。白キツネもお腹をすかせているのだろう、うさぎが欲しいようだ。

 2匹はふと、白キツネが前足を引きずっていることに気付いた。黒狼と白狼は目を見合わせると、うさぎを置いて静かにその場を去ったのだった。しばらくして2匹が振り返ると、白キツネは必死になってうさぎを食べていた。ケガをしている白キツネが気になったが、2匹にはどうすることもできない。黒狼は、おそらくあの白キツネは人間の罠にかかってケガをしたのではないかと考えた。

 2匹はお腹をすかせていたが、あの白キツネと違って自分たちは狩ろうと思えばいくらでも狩ることが出来るのだ。あの白キツネはきっと狩りさえ出来ないだろう。そう思い、2匹はうさぎを譲ったのだった。

 ◆◇◇

 夜遅くまでガヤガヤと賑やかな声が響く、ミモナの木で作られた古い飲み屋があった。その飲み屋は町の中心にあり、多くの大人が日々のうっぷんを晴らしていた。

 ギイッと強く軋む扉を開けて入ってきたのは、屈強なひとりの狩人だった。その狩人は白髪の入った顎髭をたくわえ、筋肉で覆われた身体に動物の毛皮を羽織っていた。背中にはライフルに似た猟銃を背負い、その風貌に飲み屋にいた男たちが少しざわめく。

「よお、アインヘルグじゃないか! 久しぶりだな」

 狩人―アインヘルグ―に声をかけたのはみすぼらしい格好をした初老の男だった。机にはすでに何本も酒瓶が置かれている。そうとう酔っぱらっているのだろう、大きな鼻が赤くなっていた。

 アインヘルグがブーツの音を響かせて近づくと、酔っ払いの男は向かいの椅子を指さした。狩人が素直に座ったところを見ると、ふたりは顔見知りなのだろう。

「そのなりじゃ、狩りから戻ったばかりか? ふん、今回もたらふくお金を稼いだんだろう」

 男が飲みかけの酒をよこしたので、アインヘルグはそれを一気に煽った。

 

「面白いものを見た。白狼と黒狼のつがいだ」

「あ? なんだそりゃ」

「俺の山小屋に棲みついていたんだ。白い狼は美しく、毛並みが真珠のように輝いていた。あれは高く売れるだろう」

「すげえじゃねえか! 狩ったんだろう? いくらした」

 アインヘルグは首を振った。その顔はひどく複雑そうだった。酔っ払いの男はアインヘルグのその表情を見て眉間にしわを寄せる。

「なんだ、まさか狩ってないと? いままで狼を何百頭と狩ってきたお前が?」

「・・・俺には撃てなかった。なぜか? つがいの黒狼が俺のほうを見てきたからだ。その瞳が、俺の指を凍り付かせたんだ。あの黒狼はただの狼じゃねえ、狼の姿をしたなにかだ」

 そのアインヘルグの声は飲み屋のさわぎ声にかき消された。それほど彼の声は小さかったため酔っ払いの男はさらに奇妙な目でアインヘルグを見たのだった。

 ◆◆◇

 白キツネと別れた白狼と黒狼は、とある山のふもとへとたどり着いた。シーンと静まり返る白い山は冷たい雪で覆われ、そこから溶けだした水が小さな川を作っていた。2匹はそのひんやりした小川で喉を潤すと、食べ物を探すためにうろうろしはじめた。地面の雪が溶けて獲物の足跡が見にくいため、臭いを頼りに獲物を探すしかなかった。

 しばらくしてようやく黒狼がウサギを見つけて仕留めることができた。久しぶりの食べ物に2匹は喜び、仲良く小さな獲物をむさぼった。だがその時、狼の耳に聞き慣れない音が入ってきたのだった。

 ゴオオオオオッと恐ろしい音が山中に響き渡り、地面がブルブルと震えるのがわかった。黒狼はこの現象に身に覚えがあった。前世のころの記憶がフラッシュバックのように蘇る。山を見上げると、崩れた雪がすさまじいスピードで落ちてくるのが分かった。雪崩だった。雪崩は山の木々をへし折り、恐ろしい音を響かせながら崩れてきた。逃げる暇もなく2匹は雪崩に巻き込まれ、山のふもと一体は厚く冷たい雪で覆われたのだった。

 

 真っ暗で息をすることさえ難しい雪の中、黒狼はなんとかもがいて抜け出すことができた。周囲を見渡すと背の高かった木がすべて折れ、地面さえ見えないほど大量の雪で覆われていた。黒狼は雪崩が起きた瞬間、岩陰に飛び込んだため雪が浅く済んだお陰ですぐに這い出ることが出来た。だが、白狼はそうはいかなかった。雪崩に気付くのが遅れ深く雪に絡めとられてしまい、さらに悪いことに流れてきた大木の下敷きになってしまったのだ。

 黒狼は必死に白狼を探したが、見つけることができなかった。白狼は深い雪の下ですでに亡くなっていたからだ。

 ◇◇◇

 

 再びあの真っ白な空間に戻ってきた女性は、神様に願った。転生する前にひとつだけ願いを叶えてやろうと言った神様に、女性はまた白狼として再びあの黒狼と過ごした世界へ行かせて欲しいと願ったのだ。

 神様は辛い思いをした場所へ戻ることは女性にとってさらに辛い思いをするだけではないか、と問いかけた。女性はそれでも首を横に振って戻りたいと言った。それは大きなクマのような、けれども誰よりも優しい目をした黒狼にまた会いたかったから。そして、自分が死んでたった一匹になってしまった黒狼に、かつて孤独だった自身を重ねたからだった。

 願いは叶えられた。しかし、白狼として目覚めたときには黒狼の姿はなく、周囲の風景もガラッと変化してしまっていた。大量の雪がなくなり、気候は温かく乾いた地面がむき出しになっている。白狼が亡くなってから一体どれだけの時が流れたのか分からず、白狼はひどく焦ったのだった。

 ◆◆◆

 時は戻り、雪崩が起きてからしばらく黒狼はその場にとどまっていた。狩りをして生活しながら白狼を探す日々を送っていたのだ。しかし、いくら雪を掘ってみても見つからないまま時が過ぎるだけだった。何度もウオーンと遠吠えして白狼を呼んでも、返事の遠吠えは返ってはこない。寒い夜は2匹寄り添って眠った日々を思い出し、寂しさと見つからない焦りで身が焦がれるようだった。

 そんなある日の夕方、黒狼の鼻に物が焼ける臭いがかすかに漂った。耳をピンと立て、源をさぐると遠目に灰色の煙が高く天に向かって立ち上っているのが見えたのだった。しかも一つだけではなく同じ場所からいくつもの煙が天に昇っている。規模が大きく、ただ事ではないことが起こったと感じた黒狼はそこへ向かうことにした。

 そこは小さな村だった。しかし見たことがないほどひどい状態で、家々はほとんど焼け落ち村人は血を流して倒れ、動いている者は誰一人もいなかった。災害ではなく何者かに襲われたことは明らかだった。犯人はもういなかったが、あのときの雪崩により物資や住処を失った人々がこの村を襲った犯人であった。

 黒狼は鼻につくひどい臭いに鼻づらをしかめながら村の中を歩いて回った。村は全滅しているように見えた。しかし小さな、本当に小さな声が狼の耳に届き、黒狼はその声の持ち主を探そうと耳をピンと立てた。すると村はずれのまとまって捨てられている雪山の中に小さな4歳ほどの女の子が隠れていたのだった。気を失っていたが生きていることが分かると黒狼はほっとする。

 目が覚めた女の子は黒狼を見てひどく怯えたが、村の様子を見て自分がひとりになってしまったことを知り泣いた。

「お母ちゃん・・・・お母ちゃん・・・ひっく、ひっく」

 死んだ村の中でうずくまって泣く女の子に黒狼はおずおずと近付くと、包み込むように寄り添った。そして慰めようとペロペロと涙をなめると女の子は泣くのをやめて黒狼を見つめた。狼の優しい瞳にこの狼は悪い狼ではないと知った女の子は、黒狼を強く抱きしめたのだった。黒いゴワゴワの温かい毛に包まれて、女の子は自分はひとりではないと感じてすこし安心した。けれど、寂しくて悲しくて女の子はしばらく泣いていたのだった。そんな女の子を黒狼も辛い気持ちで見つめていた。

 黒狼はおそらく、この子の母親が危険を察して雪山に女の子を隠したのだろうと考えた。その証拠に女の子はすこしの食糧と水の入ったカバンを持っていた。黒狼と女の子は親戚のいる隣町まで歩いて旅をすることになったのだった。

 

 女の子は名前をラナといった。ラナは幼いながらもサバイバルの知識を身につけていたため、黒狼が狩ってきた小動物をナイフでさばいたり木の枝から水を採取したりできた。また火打石を持っていたおかげで火をおこして寒さから身を守ることができ、肉も焼いて食べられたのだった。しかし、一番近い町といってもかなりの距離があった。幼い子どもにとってそれは想像を絶する辛い旅だった。黒狼がいるといっても4歳の女の子はさすがに重すぎて背に乗せてやることはできず、小さな歩幅では1日で移動できる距離はかなり短かった。

 しかも強い風が吹いたり雨が降る日は移動できず岩や木の下でじっとしていなければならない。当然その分、歩みも遅くなる。また、黒狼も毎日獲物を狩れたわけではなかったためお腹を空かせて眠る日も少なくなかった。

 

「もう足が痛くて動けないよう・・・」

 村から旅立っておよそ10日後。とうとうラナが悲痛な声を上げて立ち止まってしまった。黒狼は励ますようにラナの頬に鼻づらを押し付けると、近くに安全な場所がないか探しはじめた。だがぽつぽつと冷たい雨が降り始めたため、慌ててラナと黒狼はずぶ濡れになりながら近くにあった洞窟へ避難したのだった。ラナが不安を打ち消そうとぎゅっと黒狼を抱きしめ、黒狼はラナの濡れた頬をペロペロと舐める。だが夜の闇と冷気が容赦なくラナに襲い掛かった。

 その日、洞窟で眠ったラナだったが急に顔を赤くして息も絶え絶えになってしまったのだ。明らかに様子がおかしいラナの状態に黒狼はひどく焦った。どうやら雨で濡れたせいで体調を崩してしまったようだ。また、いままでの不安定な食生活も相まってラナは栄養失調気味になっていた。それもあり、ラナはひどい高熱と寒気に襲われ一刻もはやく治療しなければいけなかった。

 だが狼の姿ではどうすることもできない。治療することも、声をかけることも、栄養のある温かい料理を作ってやることも出来ないのだ。もどかしさと大きなやるせなさ、そして激しい焦りを感じた黒狼は居ても立っても居られなくなった。洞窟を飛び出し、近くに町や人間がいないか探し始めたのだ。祈るような気持ちで森の中を走り回ったとき、森の奥に火の光を見た。それは焚き木の火の光だった。一直線にその焚き木の元へ来ると、2人の若い旅人がそこに座っていたのだった。

 ふたりは聖職者と狩人だった。王都へ行く旅の途中で、ちょうど野宿していたところであった。

 突然現れた黒狼にふたりは一瞬警戒したが、威嚇をしてこない黒狼のようすを見て不思議に思いふたりは互いに目を合わせる。黒い短髪の狩人が銃を手に黒狼を追い払おうとしたが、黒狼は辛抱強く耐えた。聖職者は異様なようすの黒狼の瞳に、どこか焦りに似た色が浮かぶのを見た。

 来た道を引き返していく黒狼が、時折こちらを振り返って立ち止まる。その姿がまるで付いて来いと言っているように見えた。狩人は危険だと聖職者に訴え、黒狼を撃ち殺そうとしたが聖職者は銃に手を添えてそれを止めた。何故だか分からないが黒狼に付いていかねばならない気がした。聖職者は荷物を掴むと火の後始末をして黒狼の背を追った。

 黒狼が導いたのは洞窟の中だった。そこにいたのは病で苦しむ一人の女の子。聖職者と狩人は非常に驚くと、急いで治療をした。聖職者は力を使い女の子の病いを癒しながら洞窟の入り口で佇む黒狼を振り返った。不思議なことに聖職者が治療をしている間、黒狼はなぜか洞窟の中へ入ろうとしなかった。まるで邪魔をしないよう配慮しているかのように。

 この世界には特別な“力”を持つ人間がいる。数は少ないが、その者たちは少なからず世界に影響を与える存在だった。世界はすべて陰と陽で成り立っている。太陽と月、昼と夜があるように特別な“力”にもまた光と影が存在しており、特別な力を持つものは聖職者と魔女だけであった。魔女が闇なら聖職者は光。破壊を好む魔女の力に対し、聖職者は治療や安らぎの力を持っていた。

 治療が終わった。困惑する狩人を尻目に、黒狼は洞窟へ入ると女の子の眠る顔を見つめたのだった。その表情はとても狼がするような表情ではなかった。慈愛に満ちた、優しい目をその狼はしていたのだ。

 なぜこんな森の奥に女の子がひとりでいるのか。なぜ狼が自分たちをこの女の子の元へ導いたのか。疑問は多くあったが聖職者、とりわけ狩人はそんな黒狼を信じられない目で見ていた。受け入れるにはあまりに現実離れしすぎていて受け入れることができない。人を平気で襲い、食い殺す狂暴な狼がひとりの少女を助けたのだ。精霊かなにかが黒狼に乗り移ったとしか思えなかった。狩人は幼いころから狼の恐ろしさを目のあたりにしているだけに、なおさらこの事実が信じられなかったのだ。

 聖職者と狩人はとりあえず女の子が目覚めるまで側にいることにした。すると、朝になって女の子が目を覚ました。見知らぬ旅人の姿にラナは怯えると、近くに寄って来た黒狼をぎゅっと抱きしめた。その姿を見てふたりは女の子と黒狼の間に信頼と絆があることを知った。狼が人に懐くなど考えられなかった。ましてや狂暴なオスの狼が。だがラナの話を聞いてふたりはさらに驚く。村で生き残った女の子を助けただけでなく、獲って来た獲物まで与えていたという。この黒狼がただの狼ではないことは明らかだった。

​「お前は何なんだ」

 恐れと畏敬の念を抱きつつ狩人は思わずそう問いかけた。だが、黒狼は答えることなく静かに狩人の目を見つめ返してきた。そのおよそ獣とは思えないほどの生々しい感情が黒狼の瞳に渦巻いているのを見て、狩人は気圧されたように思わずごくりと喉を鳴らしたのだった。

 ◇◇◇

 いかに屈強な狼と一緒とはいえど、幼い女の子が一人で森を抜けるのは危ないと判断した聖職者たちは共に町まで付いて行くことにした。聖職者と狩人は元々、王都へ行く途中だったがそこまで急ぎの旅ではなかったことと、どうしても女の子を見捨てることができなかったからである。

 

 男性が二人も加われば警戒心の強い狼は離れるだろうと思っていたが、予想に反して共に付いてきた。しかも自ら先頭を歩き、危険があれば知らせて回避する賢さを発揮した。まるで人間を仲間だと信じて疑わないように、黒狼は驚くほど素直に二人を受け入れたのだ。

 

 そんな黒狼と何日も行動を共にするうち、聖職者と狩人はますますこの強く優しい狼がだたの狼だとは思えなくなっていった。まるで人を、それも屈強で頼りになる人間を相手にしているようだった。

 ラナがこの狼に名前を決めたいと言ったので、狩人がそれならいい名前を付けてやろうと言い出した。すると聖職者が、

「かつて“アストル”という英雄がいた。非常に強く賢い男だったが常に人々へ救いの手を差し伸べ、万人の心を救ったという」

 と語ったのだった。

「それはいい! お前にぴったりだな。お前はこれからアストルだ」

 やんややんやと盛り上がる人間たちを尻目に、黒狼は考えた。前世の名前はもう思い出せないが、自分が人間であることは強く心に刻まれている。この世界で自分に名前を付けようなど考えたこともなかったが、せっかく付けてもらったのだ。アストルという名も悪くないと黒狼は思った。

 そしてそれからさらに野宿を繰り返し、とうとう目的地である町へと3人は辿り着いたのだった。

 

 町の男性に事情を説明し、ラナの親戚を探した。人づてに話は広がり、聖職者が隣村の少女を連れて来たことは町の人の知るところとなった。そして隣村がなくなったことも。夕暮れ時、ラナの叔父だと名乗る人物が現れ、ラナはようやく見知った人に出会えたことに喜び、いままで我慢していた感情が堰を切って流れ出した。わああっと叔父の胸で泣くラナを、聖職者と狩人、そして町の人々も涙しながら見守った。

 黒狼は町には一切入ろうとしなかった。いや、出来なかったのだ。女の子を救った狼といえど、所詮は狂暴な狼。町の人々が恐れパニックになれば町の人間に殺されてしまうかもしれない、と考えた狩人が黒狼を説得した。黒狼は多くの人間たちを見て懐かしくなったが、怖がらせるつもりはなかった。そのため町がよく見える丘へ登り、様子を見ていたのだった。

 ラナが無事に叔父に出会えたことに黒狼はほっとした。そしてこれからのことを考える。美しく澄んだ瞳をした白狼の姿が脳裏をかすめた。

 狩人がラナが黒狼に会いたがっていると言ったので黒狼は狩人に付いて町外れに赴いた。そこには黒狼を待つラナと話を聞いたらしい叔父とその家族が待っていたのだった。聖職者もそばに立って見守っている。屈強な黒狼の姿を見た叔父たちは悲鳴を上げそうになったが姪の恩人だと思いぐっと堪える。だが叔父の幼い息子は腰を抜かしておしっこを漏らしていた。

 ラナが駆け寄ってきて黒狼をぎゅっと抱きしめた。黒狼と聖職者たちとの別れが近づいている。だが聖職者と狩人は町の人々から滞在を熱望されたため、数日ほど治療のために宿泊することになっていた。ラナは黒狼と別れるのがひどく辛く、何度も一緒に暮らそうと言って黒狼の首元に顔をうずめた。だがそのたびに叔父が首を横に振る。

「ラナ、気持ちは分かるし叔父さんたちも彼にはとても感謝しているよ。でもね、狼を飼うことはできないんだ」

「い、いやだっ、ずっと一緒だったの。これからも一緒にいたい・・・ううっ」

「ラナちゃん・・・」

 泣きじゃくるラナに困惑する叔父たち。聖職者と狩人は胸が痛む思いだったが、叔父の言うことはとても理解できた。実際、人間の世界で狼を飼うことは不可能だからだ。狼はこの世界では忌み嫌われる存在である。毎年多くの人間が狼の牙にかかって亡くなっていた。例え、叔父が飼うことを許しても町の者たちが決して許さないだろう。それを黒狼も知っていた。

 黒狼はぺろりとラナの涙をひとなめすると、すがりつくラナを強引に引き離した。唖然とする大人たちを尻目に、黒狼はラナの叔父を見つめた。その曇りのない黒い瞳に見つめられた叔父は、まるで貫かれたように身体を硬直させる。黒狼から人間の意思のようなものを感じたからだ。それは、まるで「ラナを頼んだ」と言っているかのようで叔父は恐怖と不気味さで身体が震えた。

「あっ・・・・! やだよ、待って・・・!」

 ラナが黒狼へ手を伸ばす。黒狼は静かに森の中へ歩いて行った。追いかけようとするラナを叔父が慌てて掴んで止める。ラナは幼い子どもと思えないほど強く抵抗しながら、黒狼へ向かって叫んだ。

「アストル!!!」

 呼ばれてピタッと一瞬立ち止まった黒狼は、人間たちが固唾を飲む中ゆっくり振り返った。その表情はまるで悲しんでいるように見えてラナは何も言えなくなる。涙を流すラナを一瞥すると、黒狼は今度こそ去って行ったのだった。

 

 その夜。宿で寝る支度をしていた聖職者と狩人はお互い沈黙していた。ふたりとも黒狼のことを考えていたからだ。一緒に行動したのはたった数日だったが、黒狼の存在はふたりの心に深く刻まれていた。あの黒狼は普通の狼とは違う、というのは共通の認識だがそれ以上のことをふたりは知らなかった。あの狼が一体どこから来たのか、通常、群れで生活する狼がなぜ一匹だけでいるのか。ふたりはなにも知らなかったし、知るすべもなかった。

 だが旅の途中、ふとたまに見せる黒狼の寂しい瞳がまるで黒狼の人生を物語っているように思えて狩人はひどく切なくなった。

「あいつ、ずっと一人ぼっちなんですかね」

 狩人がぽつりとつぶやく。

「分からない・・・。どこかで手を差し伸べてくれる人がいればいいですが・・・、それを祈るしかないでしょう」

 黒狼の存在は聖職者の人生に大きく変化をもたらした。そして、それは狩人も同じだった。

 ◇◇◆

 

 真っ暗な森を歩く黒狼。黒狼は白狼のことを考えていた。実は雪崩が起きたとき白狼は亡くなったのではないかと黒狼は薄々感じていたのだ。しかし、それを認めたくない気持ちがあり、あの場から動けずにいたのだった。だがラナと出会い、村を失った幼いラナが力強く前向きに生きようとする姿を見て黒狼は一歩踏み出そうとしていた。白狼の待つ場所とは反対方向へ足を向ける。黒狼は白狼の死をようやく受け入れようとしていた。

 そんな黒狼を見ていた女がいた。魔女である。実はラナの旅の途中から魔女は黒狼に目を付けていたが、聖職者と接触したので手を出せないでいたのだ。魔女と聖職者は対立しているわけではないが、好ましくも思っていなかった。ただ、互いの存在がこの世になくてはならないものだと理解しているため、争うことがないというだけで。

 突然、ザッザッと地面を踏みしめ歩いてくる女に気付いた黒狼は緊張して身体をこわばらせた。動物の本能なのか、そいつが普通の女ではないと感じ取り全身の毛が逆立つ。そんな黒狼に魔女は微笑みかけた。

「怖がらないで、素敵な黒狼さん。私はシベリアの魔女。あなたの敵ではないわ」

 魔女と聞いて黒狼はなおさら警戒した。黒狼の元いた世界では魔女は存在しなかったし、この世界のことも黒狼はほとんど知らない。突然現れた黒づくめの女に警戒するのは当たり前のことだった。

 魔女はウェーブがかった黒髪と赤い瞳をした非常に美しい女性で、黒いレースのドレスと手袋をしていた。赤いイヤリングが不気味な暗闇でも光って見える。

「私はあなたに提案をしにきたの」

 鋭い牙を剝き出しにして唸り声をあげる黒狼に向かって、魔女は妖艶な赤い唇を引き上げた。

「私の使い魔にならない?」

 黒狼は驚きに目を見開く。シベリアの魔女は話し始めた。最近、使い魔が亡くなったため新しい子を探していたことを。魔女は黒狼にささやいた。自分の使い魔になれば強い力が手に入ると。その言葉に黒狼はぴくりと耳を動かした。

「どう? 私は自分でいうのもなんだけど、とても良い魔女よ。使い魔をひどく扱う魔女もいるけど私は一切そんなことはしないし。あなたを大切にするわ」

 そうアピールする魔女に、黒狼はいやともいいとも言えないでいた。白狼を失い、ラナも町へ送り届けたいま何をすればいいのか、黒狼は行き場もなくさまようしかなかったからである。

 居場所がほしかった。なぜなら、黒狼にはラナのように帰る場所も家族もなかったから。それに、元人間だった黒狼はラナとの旅で人と触れ合う喜びを思い出しそれを求めてもいた。

 だが、目の前に立つのは怪しい黒いオーラを持つ魔女である。黒狼は悩んだ。

 ふと、脳裏に白狼の姿が浮かんだ。あのとき、彼女を守れたら・・・。

 病に苦しむラナの姿も思い浮かぶ。自分に治療する力があれば・・・。

 この狼の姿では抱きしめてやることも、声をかけることもできないのだ。

 黒狼は力を得ることを条件に魔女の使い魔になることを決めたのだった。

 ◆◇◇

 

​ つづく

 ​

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